囚人のジレンマ 第2話「早出」|短編小説

三時に出るはずだった父の船は、一週間で二時半に出るようになった。
理由は簡単だった。三時に港へ行くと、もう半分の船がいなかったのだ。誰かが二時半に出れば、次の日には別の誰かが二時に出る。夜明け前の海に、船の明かりがぽつぽつと増えていく。わたしは布団の中で、エンジンの音を数えるようになった。
「二時でいいの?」
ある朝、玄関で長靴を履く父に聞いた。
「いいも悪いもねえ」
父はそう言って、暗い道へ出ていった。
*
箱の中身が変わったのは、その次の週だった。
アジが小さい。手のひらに乗るくらいの、豆アジと呼ぶにも小さいものが、箱の半分を占めている。漁協には、十五センチに満たない魚は海に返すという決まりがある。少なくとも、わたしが小学校の社会科見学で聞いたときには、そういう決まりがあった。
「父さん、これ」
「売れるもんは売る」
父は箱に氷を落とした。ざらざらという音が、言葉の続きを消した。
岸壁の反対側で、同級生の颯太のお父さんが網を上げていた。父と颯太のお父さんは、昔は二人で一隻の船に乗っていた。お盆には、うちの庭で一緒にビールを飲んでいた。
その朝、二人は目を合わせなかった。
どちらが先に、小さい魚を箱に入れたのか。わたしにはわからない。たぶん、二人にもわからない。

*
丸久の裏口のドアが、少しだけ開いていた。
台車を止めると、中から知らない男の声がした。
「――正直に申し上げますと、ハマ屋さんはもう、かなり前向きにご検討いただいています」
灰色の背広が、ドアの隙間から見えた。胸に小さな青いバッジ。ドリームマートのロゴと同じ色だった。
「御社とこうしてお話しできるのは、今月いっぱいかと。弊社としても、この町で二つの店舗さんと組む予定はありませんので」
しばらく、何の音もしなかった。冷蔵庫のモーターだけが唸っていた。
「……向こうが、そう言ったんですか」
千早さんの声だった。いつもより、少し低い。
「ええ、まあ。具体的なことは、申し上げられませんが」
「考えます」
「ありがとうございます。よいお返事を」
ドアが開いて、背広の男が出てきた。わたしと台車に目を留め、名刺入れに手をやりかけて、やめた。代わりに、ていねいに頭を下げて通りへ出ていった。男は通りを渡らず、港のほうへ歩いていった。
千早さんは事務所の机に座ったまま、ドアの外のわたしを見た。
「聞いてた?」
「……少し」
千早さんは笑わなかった。伝票を受け取り、ボールペンで数字を書き込みながら言った。
「凪ちゃん。ハマ屋さんに、ああいう背広の人、来てた?」
わたしは、うそをつくのが下手だ。
「昨日、来てました。同じ人かは、わからないけど」
ボールペンが、一瞬止まった。
「そう」
千早さんは伝票にサインをして、わたしに渡した。
帰り道、伝票を見て気づいた。千早さんが書いた買い取りの単価は、先月までの値段のままだった。漁協が一割下げた、新しい値段ではなかった。
書き間違いだと思った。言いに戻ろうかと迷って、やめた。父に言えば、父は喜ぶ。でも千早さんに言えば、千早さんは直してしまう。
わたしは伝票を、半分に折ってポケットにしまった。

*
その週、わたしは何度か、ハマ屋で航さんに言いかけた。
背広の人が、丸久にも来ていたこと。千早さんが「向こうがそう言ったんですか」と聞いたこと。
でも、言えなかった。言えば、わたしは丸久のことをハマ屋に告げ口したことになる。言わなければ、航さんは何も知らないまま、どこかで判を押すかもしれない。
どちらの店にも魚を運んでいるのは、町でわたしだけだった。二軒のあいだを毎朝行き来しているのに、わたしはどちらにも何も運べなかった。
あの値札のことも、聞けなかった。
〈¥1,107〉
夜、布団の中で、その数字を何度も思い浮かべた。千百七円。値段ではないのかもしれない。番号かもしれない。誰かの、何かの。考えているうちに、遠くで最初のエンジンがかかった。午前一時四十分だった。
*
月曜日の朝、新聞に折り込みが入っていた。
青い紙だった。丸久の看板と同じ青。いつものチラシの倍の大きさで、真ん中に、見たことのない太い字が並んでいた。
〈創業五十周年感謝祭 全品三割引〉
九時の開店前から、丸久の前には列ができた。こむぎ堂のおばさんも、颯太のお母さんも、わたしの母も、その列にいた。
通りの反対側、ハマ屋の前には誰もいなかった。
「千早さん、とうとう仕掛けたね」
「チェーンが来る前に、ハマ屋を潰しておく気だよ」
「やっぱり、あの二人は……」
列の中から、そんな声が聞こえた。誰も声をひそめていなかった。
わたしは、通りの真ん中に落ちていた一枚を拾った。三割引の大きな字の下に、小さな字で一行だけ、注意書きがあった。
〈※鮮魚は除きます〉

そのさらに下、紙のいちばん隅に、小さな枠が一つだけあった。三割引の品ではなかった。
〈湿布 一一〇七円〉
千百七円。
わたしは、その数字から目が離せなかった。ハマ屋の倉庫の、青い缶の中の数字だった。それが、丸久のチラシに載っている。
顔を上げると、ハマ屋の入口に航さんが立っていた。手に、同じ青いチラシを持っていた。
航さんは長いあいだ、それを読んでいた。大きな字ではなく、紙のいちばん下のほうを見ていた。
それから、誰に言うでもなく、つぶやいた。
「……あいつ、無茶しやがる」
二十年間、航さんが千早さんのことを口にするのを、わたしは初めて聞いた。
その声は、怒っていなかった。
(第3話「買いだめ」へ続く。11月13日公開予定)
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは関係ありません。
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- 第1話「値札」
- 第2話「早出」(この話)







