囚人のジレンマ 第1話「値札」|短編小説

午前四時半の港は、まだ夜の続きだ。
冷蔵トラックのアイドリングと、氷を砕く音と、まだ寝ぼけたカモメの声。父の船「第三凪丸」が岸壁に鼻先をつけると、わたしは軍手をはめて、荷台の発泡スチロールを数える。アジが六箱、イカが二箱、名前のわからない赤い魚が一箱。
「丸久に四、ハマ屋に四。赤いのは丸久」
父はそれだけ言って、もう網のほうを向いている。
港通りは、岸壁からまっすぐ山のほうへ延びる県道だ。片側一車線に歩道がついていて、町ではいちばん広い。その道をはさんで、青い看板の「丸久(まるきゅう)」と、赤い看板の「ハマ屋」が、少しずれた斜め向かいに建っている。どちらも店の前に車が何台か停められる、平屋の小さなスーパーだ。この町にスーパーはこの二軒しかない。だから町の人は、どちらで買い物をするかで、何かを表明しているような顔をする。
わたしは台車を押して、先に丸久の裏口へ回る。
シャッターの前に、千早さんが立っていた。紺のエプロン、ひとつに結んだ髪。五時前なのに、口紅だけはもう引いてある。
「おはよう、凪ちゃん。今日は赤いのがあるんだ」
「キンメの小さいの。父が、煮付けなら売れるって」
「売れるよ。売る」
千早さんは箱の蓋を少し持ち上げて、目だけで笑った。それから、ほんの一瞬、通りの向こうへ視線を投げた。
「……向こうの箱、重かった?」
「え? いつもと同じですけど」
「そう」
千早さんはそれ以上何も言わず、伝票にサインをした。
ハマ屋の裏口では、航さんが同じ時刻に、同じ姿勢でシャッターを上げていた。日焼けした腕、無精ひげ、首にタオル。
「おう」
声はそれだけ。箱を受け取り、伝票にサインをする。航さんは通りの向こうを見ない。見ないようにしているのがわかるくらい、見ない。
二人は、二十年間ひとことも口をきいていない。
これはこの町の、天気と同じくらい確かな事実だ。漁協の寄り合いでは長机の端と端に座る。祭りの寄付の名簿では、丸久の次にハマ屋の名前が来ないように、事務の人が順番を入れ替える。理由を知っている大人は多いのに、誰もはっきりとは言わない。わたしが聞いたことがあるのは、中学の頃、誰かの母親が言った一言だけだ。
――あの二人、昔、結婚するはずだったのよ。

*
その知らせは、六月の最初の月曜日に、回覧板と一緒に来た。
〈全国チェーン「ドリームマート」 来春、バイパス沿いに出店予定〉
夕方、漁協の二階で臨時の寄り合いがあった。わたしは父の弁当箱を届けに行って、階段の途中で中の声を聞いた。
「買い取りを一割下げると、組合長が」
「チェーンが来たら、丸久もハマ屋も値下げするしかねえ。そのしわ寄せがこっちに来るってことだろ」
「じゃあ量で稼ぐしかない」
「量ったって、海は一つだぞ」
「おまえが獲らなくても、隣が獲る。それだけの話だ」
誰かが笑って、誰も笑い返さなかった。
帰り道、父は一言もしゃべらなかった。軽トラのラジオが、遠い町の野球の結果を読み上げていた。家に着く直前、父がぽつりと言った。
「明日から、三時に出る」
いつもは四時だ。わたしは「うん」とだけ答えた。
*
翌朝、港通りのパン屋「こむぎ堂」のおばさんが、シャッターの前でため息をついていた。
「チェーンにはパン売り場もあるんだって。焼きたての、百円の」
おばさんの店のクロワッサンは百八十円で、わたしは小さい頃から、それが世界でいちばんおいしいと思っている。
その日、丸久は豆腐を十円下げた。
翌日、ハマ屋は同じ豆腐を十円下げた。
その次の日、丸久は卵を二十円下げた。
町の人は喜んで、二軒のチラシを見比べるようになった。わたしの家の食卓には、父の獲ってきた魚が前より多く並ぶようになった。売れ残りだった。

*
金曜日の朝、ハマ屋で配達を終えると、航さんに呼び止められた。
「悪い、倉庫の奥から氷のケース一個持ってきてくれるか。腰がな」
珍しいことだった。航さんは人に物を頼まない。
倉庫は店の裏の、元は網元の蔵だったという古い建物だ。湿った木の匂いと、段ボールの匂い。蛍光灯のスイッチを入れると、一本だけが遅れて点いた。
氷のケースは、いちばん奥の棚の下にあった。引き出したとき、棚の上で何かがずれて、床に落ちた。
缶だった。昔のクッキーの、青い缶。蓋が外れて、中身が足もとに散らばった。
値札だった。
スーパーで使う、手のひらに収まるくらいの、白い厚紙の値札。何十枚もある。古いものは黄ばんで角が丸くなり、新しいものはまだ白い。品名の欄は、どれも空白だった。
そして価格の欄には、どれにも同じ数字が、同じ字で書いてあった。
〈¥1,107〉

千百七円。何の値段だろう。店のどこにも、そんな値段の品物は見たことがない。わたしは一枚を拾い上げて、裏返した。裏には何も書いていない。ただ、ボールペンを強く押しつけた跡が、表から浮き出ていた。
「凪」
振り向くと、入口に航さんが立っていた。逆光で、顔がよく見えなかった。
航さんはゆっくり歩いてきて、しゃがんで、散らばった値札を一枚ずつ拾った。わたしの手の中の一枚も、黙って受け取った。全部を缶に戻し、蓋を閉め、棚のいちばん上に置き直した。
「氷、ありがとな」
それから、こちらを見ずに言った。
「それは、売り物じゃないんだ」
わたしが店の表に出ると、通りの向こう、丸久のシャッターの前に千早さんが立っていた。手には刷り上がったばかりのチラシの束を抱えている。
千早さんは、ハマ屋の倉庫のほうを、じっと見ていた。
(第2話「早出」へ続く)







